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薄馬鹿下郎日記

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八閑斎

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何かのために死ぬること

2006.05.29 未分類
この前、授業で教授が
「みなさんは何のために死ねますか?」
的なことをのたまわっていた。

『「自分の市のために死ねますか?」
 「自分の県のために死ねますか?」
 「日本のために死ねますか?」

 「死ねないですよね。
  皆さんの中には(授業終りに紙に意見を書かせるからわかる)
  誰のためにも死ねない、それが家族であっても死ねない
  という人がいました。」

  また

 「愛する人のためなら死ねるという方もいました」
  (以下略)』

何のために死ぬか?という質問には小生は意見用紙では答えなかったが
今、あえて答えるとすれば”自らのために”と答えるだろう。
小生が思うに「国のために死ぬ」というのは”拡大された自己”
のために死ぬことなのだと思う。

だから勿論”市”とか”県”のために死ぬこともありうる。
しかし、それは自己を投影できるものでなくてはならない。
例えば明治以前の村落共同体は自分たちの利益のために
隣の村落と戦争することはよくあった。
つまり、その村落は村落であるということと同時に自己でもある。
村の草刈り場を失うことは自らの田にいれる肥料を失うことと
直結しているのだ。

近代国家では国家はタテマエでは国民のものであるから
国家は本来は”拡大された自己”のはずである。
しかし、あまりにも範囲が拡大しすぎたために
個人の利益と国家の利益に差異が発生した。
昭和初期の日本の利益は一部軍人の利益であって国民の利益ではなかった。
このギャップは悲劇であったと思う。

この反動で「たとえ家族のためであっても命を懸けられない」という
人が増えているのだと思う。
家族は一番先に”拡大された自己”の範囲内に入ると思われるが
現在はそうではない。
これはその土地で協力せねば生産が出来ない農業中心社会から
商工業中心社会へ変遷した結果
生まれた気質ではないか?

もっとも小生は個人主義の最たるものなんですが・・・。
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コメント2
トラックバック0
2006.05.30 16:58 edit
このタイトルに違和感をおぼえたのは、
うちの日本語力の問題…?
じゃんぼ URL
2006.05.30 20:17 edit
まあまあその辺はお気になさらずにw
八閑斎 URL
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