都心の真ん中を再開発とは御苦労なことだ。
新聞には「4割が自然空間」という文字が出ていた。
笑止だ。
まあ、新聞に”自然”の定義を問うたところで仕方ないが
自然空間なわけがない。
ちなみにここでの自然は”人為”との対義語である。
新聞のそれは木を植えてあったり芝生だったりする
空間が全体の4割もあるということだろう。
都会のオアシスとでも言いたいのだろうか?
残念ながらそんなものにはならないだろう。
計画されきった空間
そんなものに心癒されるわけはない。
きっと何かわからない居心地の悪さを感じるだろう。
(って行ったこともないのに散々だがw)
もっとも「癒し」とかそういう言葉にも
胡散臭さを感じる。
近頃の「癒し」ブームとは何なのだろうか?
小生は正直やたら木があるだけとか
森の中とか全然癒されないのだ。
なぜならそこには人にとって不快な虫
(スズメバチやらデカいハエやらヤブカやら)
がわんさといておまけに森が深ければ深いほど
何かがいそうで、妙な緊張感が出るのだ。
だからといって都市空間で癒されると言うわけでもない。
むしろ、別に癒されないし、癒されたいとも
思わない。
疲れたときは見晴らしのいい丘やらに登って
ボーッとする。
でもそれは「癒し」を求めているわけではない。
肉体的にも「スッキリとした視界」や「吹き抜ける風」が
気持ちいいし、精神的にも「人が少ない」ことや「うるさくない」
空間というのは心地よい。
でも、それは世に満ちる「癒し」とは違う。
頭を空にする時間が欲しかったりするのだ。
「癒し」というコンセプトは様々なところに広がっているが
それはつまるところ癒されない似たような空間を量産することになる。
また「便利」というコンセプトは戦後長らく支配してきて
今もかなりの支配権を持っている。
郊外の駅前の再開発を見れば一目瞭然である。
同じような(むしろ9割方同じ)ショッピングセンターが出来ている。
どこの駅で降りてもほぼ同じサービスが受けられる。
それはとても便利だ。
そのセンターができれば今まで無視されていたような
駅も通勤圏と見なされるようになるかも知れない。
しかしそれは日本の均質化にほかならない。
各都道府県の県庁所在地の風景がほとんど東京と似たものに
なってしまったのと同じように
均質化された駅が大量にできる。
果してそれは魅力的な街になるのだろうか?
その便利な機能を取り去ってしまったら
何が残るのだろうか?
近年騒がれているコンパクトシティにも同様な危機感を持つ。
全国で一斉にコンパクトシティにしようと再開発したら
皆同じような都市になってしまうではないか。
日本は各地にニュータウンを一斉に作りそれが
失敗だったことを感じているはずだ。
(一つのコンセプトを一斉に行う危険性)
無機質な団地はある意味シュールである。
小生は退廃的な美しさを感じで逆に好きだったりするがw
ハッキリ言って不自然である。
(現在時間が経って少し馴染んできた感もあるが)
このコンセプトによる都市作りの全国均質化というのは
政治や行政がもはや住民の手から完全に離れてしまったことを
示している。
現在、政治行政機能と住民の分離は日本史のなかで最大になっている。
日本の多くの問題はここに起因している。
・・・ような気もする。
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